いつものように扉を開けば、ムワリと押し寄せる甘いにおいに僚は顔をしかめた。 朝の8時。 昼起床が当たり前の男にしては、珍しく早起きだ。 それもこれも、この頭も痺れるような甘ったるい匂いが原因だった。 「香ぃ〜!朝っぱらから何やってんだよお」 「あら、僚。珍しいわねこんなに早く起きてくるなんて」 「おまぁな、俺の部屋までにおってくるぞ」 「あ、そう。ごめんね。ほら、今日バレンタインだから」 「ああ〜?」 「いつもお世話になってる皆さんにと思って」 それでこれか。 しかしまあ、何故こんな朝早くから。 それに 「何だよ、この山は」 財政難だなんだと言いながら、目の前には山の様に積まれたチョコレート。 「だって、海坊主さんたちに、かすみちゃん、それからミックたちと、教授に、後はあんたがツケを溜め込んでるお店にも渡すとなると、どうしても多くなっち ゃうんだもの」 「んなもん渡さんでもいいだろ。」 「ダメよ。別に、年に一度なんだからいいじゃない」 そう軽くあしらわれ、邪魔するならあっち行ってよ、しっしっ、と追い出された。 面白くない。非常に。 教授やかすみ達に渡すならまだしも、何故ミックにまでやらにゃならんのだ。 第一、先ほど香が挙げた中に自分の名前がなかった。 「なんだリョウ、お前カオリから貰ってないのか!ha〜!可哀相に!」と憎たらしい顔が浮かぶ。 (こちとら、先週からおかず一品減らされてんのによぉ) そして我ながらこの子供じみた思考に苦笑する。 普段から十分すぎる程、あいつには色々なものを与えられている。 ほんの数時間前だってそうだった。 なのに、たかがチョコレートひとつに一喜一憂している自分がいて。 いや、この場合、されどチョコレートとでも言うべきか。 菓子企業の策略にまんまと躍らされている気もするが、今はそんなことはどうでもいい。 こんなことにまで香への独占欲が働くことに、大きくため息をついた。 俺も相当ヤキがまわったもんだ。 「お〜い香〜」 「なによ?」 「メシ〜」 力なく言ってグルルと腹を鳴らせば、呆れ顔の香。 「ほんと、あんたはそれしかないわけ?」 「そんなのいいから、先に朝メシ作ってくれよ」 「ちょっと待って、これが一段落ついたら」 「待てねぇ」 「もう!じゃあ、これ食べてて」 ずいと目の前に差し出されたのは、綺麗に成型されたトリュフチョコ。 一瞬考えてから、そのチョコを摘む指ごと口に含んだ。小さく吐息を漏らして引っ込めようとする香の手を、そうはさせるかと掴んでチョコレートが溶けきるまでねっとりと舐め上げれば、すっかり頬を上気させた女と目が合った。 「なななにすんのよっ!」 「・・・甘ぇ」 思わずその後味に顔をしかめる。 「あったりまえじゃない!チョコなんだもの!」 「まあ、いい。とりあえずコーヒー」 「わ、わかった」 あー、もう いつまでもそこで固まってんじゃねえ 無防備すぎんだよ、お前。襲っちまうぞ それからどうも居心地の悪さを感じた俺は、射撃場で時間を潰しダイニングには寄らずに自分の部屋へ戻った。 「早く夜にならねぇかなあ」 誰にともなく呟く。 今日はまたツケを増やすことになりそうだ。 朝メシはとっとと食べて出掛けちまうか、と支度を始めようとすると、ふとベッドの上の小箱に気が付いた。 *** 「僚ー?あたし伝言板見てくるわねー」 ・・・。 返ってこない返事に、ため息をつく。 一体何なのかしら。 今朝からどうも機嫌が悪いし、自分が飲みたいって言ったコーヒーも飲まないで。 そんなにチョコが嫌いなのかなー、やっぱり違うのにすればよかったかしら、と玄関のドアを開けて出ようとしたところで、ドスンと大きな壁にぶつかった。 「っ、僚!何でこんなとこに突っ立ってんのよ!」 「だってお前、伝言板見に行くんだろ」 「そうだけど、僚もついてくるの?ちょ、待ってよ」 何怒ってるの、あたし何かした?と後ろから小走りで追い掛けてくる香の足音を聞きながら、俺は右ポケットの中の少し軽くなった小箱に指先で触れた。 俺ってば、香にはどこまでも甘いのな 今なら少し、槇村の気持ちが分かる気がするぜ。 「ねぇ僚ってば」 「早く来いよ」 ほのかなラム酒と、ビターなチョコレートの後味。
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