毎日あしげく依頼の確認へ通うものの、そこで目的の文字を見付けることは出来ない。
もと来た道を戻りながら、肩を落として大きなため息をひとつ。
このルーティンを女はかれこれ二週間続けている。


帰路の途中、向こう側の歩道を髪の長い女性を追い掛けて間抜け面の大男が走り去って行った。


女は更に肩を落とす。
もはや怒りすらわいてこない様子。




「こんにちは、美樹さん」


10日を過ぎた辺りから、来店を告げるカウベルにさえ悲壮感を漂わせるようになっていた。
喫茶店の女主人は、来店者の姿をろくに確認もせず専用マグカップへ手を伸ばす。


「あらら香さん、その調子じゃまた今日も依頼なしね」
「うんそう......もう今日で二週間よ、二週間!前回の報酬だってツケの清算と毎日の食費でとっくに無いってのにもう!!毎日毎日朝から晩までナンパナンパナンパ!なんなのアイツはぁ!」


席につくやいなや、そう捲し立てて勢い任せにバン、と強かにカウンターを叩く。
それで本人の気の一つや二つ晴れればいいのだが、結果気は晴れることもなく、ジンジンとした手の痛みだけを残した。



そんな調子で、珈琲の薫りがする頃にはすっかり気持ちは萎えてしまったようだった。


「ま、そうカリカリしないで。これは私の奢り。」
「...ありがと美樹さん」



程無くして強面の店主が外出から戻ると、三人であれやこれやととりとめの無い話に花を咲かせた。
先程までの怒りと悲壮はすっかりリセット。

そして一息ついた頃、誰かから呼ばれた気がして女が振り向くと、店のガラス戸越しに手招きをする男がいた。


「何よアイツ、入ってこればいいのに」
「フン、おおかた自分の悪口大会に飛び入る勇気も無いんだろうよ。弁解の余地が無いからな」
「あら冴羽さん、何か言ってるみたいよ。『はやくかえろうぜ』ですって」
「美樹さんにちょっかいも出さずにぃ?」
「フフフ。私はそっちの方が嬉しいわ。ま、早く行ってあげて」
「う、うん、ありがとう。ご馳走さまでした」
「明日は依頼があるといいわね!」
「気を付けてな」


カララン、と軽い音を鳴らして店を後にする女に、夫妻はやれやれ、といった様子で顔を見合わせた。




***




「で、今日一日何をしていらしたのかしら?」
「おいおい、早々にお説教か?勘弁してくれよぉ」
「なによその言い種。元はと言えばあんたが悪いんでしょ!この甲斐性なし!変態もっこり男!!」
「しょんなひどい、カオリちゅわん」
「ふざけるな!」
「ひゃー!!ハンマーだけは許してください香サマッ」


家へと帰る道すがら、一通りお決まりのパターンをこなし終わると、突然の沈黙が二人を襲った。


まいったな、と思う。
香はこの空気が苦手だ。
調子が狂う。かといって、下手な事を言って雰囲気を壊してしまう勇気もなかった。
こんなとき以前はどう振舞っていたのだろう。
思い出せない。焦る。何か喋らなくては。今日の夕飯はどうする、とか。次の依頼はなんとしても受けてもらいますからね、とか。
必死に思考を巡らせていると、隣を歩く僚が腕を持ち上げるのが見えた。
香はびくりとして身構える。


それを横目に苦笑しながら僚は髪を掻きあげた。



なんとなく落ち着かない気分なのは、なにも香だけじゃない。


パートナーが自分の一挙一動に落胆したり、怯えたり、喜んだり、照れたり。
今だってまだ隣で身体を強ばらせて。



ときたま以前の自分たちがどうやって上手く距離を保っていたのか、分からなくなる。


奥多摩での出来事から1ヶ月。
長年の関係を、目には確かに見えねども大きく揺るがす出来事に、一ヶ月やそこらでは対応しきれるはずもなく。
表面上では変化ないが、実際二人きりになると、お互いが今まで以上に、素直に、歩み寄ろうという姿勢が多く見られるようになったのは事実だ。
僚の方から意識的に物理的な距離をつめることも少しずつしている。
そんな時決まって香は身を固くして押黙るか、饒舌になるか。


そうして、どちらかが距離を詰めては、どちらかが引く、探り探りの日々を送っているのだった。





焦れったいな、と僚は思う。
歯がゆい、とも。
しかし考えれば考えるほど、思考は複雑になって、かえって頭はしんと冷え渡ってゆく。
いっそのこと何かハプニングが起こってしまえばいいのに。
この微妙な距離をゼロにするなにかが。

ついでに自分はヘタレだ、とも思った。






結局二人は気まずい雰囲気のまま、アパートに到着した。







とりあえず一旦自分の部屋に行って、テンションを整えてから夕飯でも作ろう。その頃にはいつもの調子に戻っているはず、香はそう考えながら一歩先を行き玄関の解錠をする僚の手元を見て、


ふ、と。


あの日の記憶が甦った。


ガラスごしに手を重ねる、自分と・・・




「ねえ、リョウ」


何も考えずに、気付いたら名を呼んでいた。
どうして今こんなことを思い出すのかさっぱりわからない。
あまりの突拍子の無さに自分でもおどろいていた。


それでも続けて手をだして、と香が頼むと、僚は怪訝な顔をしながらもゆっくりと左手を差し出した。



差し出された大きくて熱い手のひらと、自分の手のひらを同じように合わせる 。
こうして見ると自分の手はどんなに非力か。
そして、僚の手はいつ触ってもとても温かい。
どんな時も、この大きくて温かな手が自分を守ってくれる。助けてくれる。
じんわりと伝わる僚の熱で、香の中を流れる血液もカッと熱くなる。
胸がジンジンとして、目尻がぼんやりとしだす。


そのまま指を絡めてみる。
指が絡め取られる。


手を握ってみる。
手を握り返される。




ふふ、と自然と笑みがこぼれた。
この手はもう絶対に離さないんだから、なんて心の中で思いながらぎゅうと強く握ると、それ以上に強く握り返された。


「いたっ」
「あ、わりぃ」




顔を見合わせて二人で吹き出した。


バカバカしい。


子供っぽい。




でもそれが愛おしい。






香が自分の手を弄ぶ様子を、しばらく僚は何も言わず静かに見守った。


玄関先で突然何を言い出すのかと思ったが、目の前の穏やかなパートナーの姿にもう何も考えるのをやめた。
はじめに手が合わせられた時、脳裏に浮かんだのはガラス越しに見る泣き顔。
しかしどうだ。いま目前にいる女の顔に涙は浮かんでいない。


自分より幾分体温の低い、けれど温かな小さく華奢な手から、何かが流れ込んでくる。足りない部分が満たされていく。
常に緊張で張り詰めている肩の力が、一瞬抜けた。

ああ、そうか。
こういうことか。





拗れて絡まった結び目が、するりと解けたような気がした。











―ぐうう。

果たして。
腹の虫を鳴らしたのはどちらだったか。
もう一度顔を見合って、ニヤリとする。



「あ〜、腹減ったなぁ」
「じゃあ、すぐご飯にしましょ。あたしもお腹すいちゃった」




繋いだ手はそのままに、手を引いてようやく家に入った。どうせ誰も見ちゃいない。せめてリビングまでは、このままでいい。
控えめに握り返されるのに気をよくして、いつもより歩幅を狭くゆっくりと歩きだした。













































 

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