さわさわと気持ちのよい風が身体を撫ぜる
背後にある貯水タンクに背中を預けて、あたしは深く息を吐き出した。
さわさわ
さわさわ
どこからか、目を閉じれば木葉の揺らぐ音がする。
先程まで乱れていた自分の息遣いも、大分落ち着いてきた。
またあたしの脇を通った風に吹かれて、首筋を一筋の汗がひんやりと流れていった。
(・・・いい加減学習しなきゃ。あたしも、あいつも)
5.望む
ずるずるとその場で座り込んで膝を抱える。
アパートを飛び出してきたままの心許ない格好のあたしを、冷たい風がびゅうびゅうと吹き付けてくる。
―そう、あたしはまたアパートを飛び出してきたのだ。
以前にもこんなことはあった。
そして今回も例に洩れず、飛び出したのは自身の勝手な理由から。
(いつものことじゃない。何で今更)
暫くそのままでいたら、あっという間に日が暮れて
肌寒さにぶるりと震えたところに、ふと、嗅ぎ馴れた煙草のにおいが風に乗って男の存在を知らせた。
・・・どきん。
いや、別に来るのを待っていた訳じゃない。
もう少ししたら、自分からアパートへ帰ろうと思っていたところだった。
誰にともなく、頭の中で言い訳をする。
斜め後ろに感じる気配には気付かないふりをして、あたしはできるだけ自然に見えるように背を向けて歩き出す。
「おまぁ、こんなとこで何してんだよ」
心臓が跳ねる。
乱暴な物言いとは裏腹に、どこか甘さを含んだ声に底知れぬ安堵感を覚えてしまうあたし。
「・・・いつから、そこにいた?」
「さぁな」
「どうしてここがわかったの?」
今日は発信機を身につけていなかったはずだ。
後ろで煙草を揉み消す音がする。
「先週、『いい廃ビル見付けた』ってここのこと言ってただろ」
「そ、っか・・・」
そういえばそうだった。
その時はいつものようにエロ本を読みながらニヤニヤしてたから、てっきり聞いてないんだと思ってたのに。
あたしのことは全部お見通しってわけ。
相変わらずびゅうびゅうと吹き付けていた風が、突然何かに遮られてこなくなった。
・・・やはり、僚は優しすぎる。
いつもはわざとあたしを怒らせるようなことを言って面白がってるくせに。
行くなと言ってもナンパに出かけてしまうくせに。
こんな時は、何も言わずにそばにいてくれるなんて。
僚は、あたしが望めば何でも与えてくれる。
今までも、幾度となく与えられてきた。
――そう、今まさにあたしが欲している、暖かさも。
「りょぅ・・・」
腕の回らない大きな背中も、ゆっくりと身体の上を滑る大きな手も、抱きしめられる安心感も、全部、全部。
あたしは僚の胸元で、真新しい煙草のにおいを目一杯吸い込んだ。
「・・・さっ、帰ろう!来てくれてありがとう。ちょうどお腹も空いてきたでしょ?」
ゆっくり身体を引きはがして、できるだけ明るく振る舞った。振る舞えたはずだ。
これ以上、あたしが僚に望むことはない。
望んではいけない。
今のままで十分だ。
これ以上、僚の重石になってはいけない。
そのまま横を通り抜けて下へと続く扉へ向かおうとした時、突然何かが降ってきて、視界が暗転した。
「きゃっ!何?!」
「んな格好してたら風邪引くだろ、ちったあ考えろ。冷てぇんだよお前」
「・・・・・・りょう・・・」
どこまでも不器用だ、この男は。
それを分かっておきながら可愛いげのない態度をとってしまうあたしも、とんでもなく不器用。
「・・・お前さあ」
''言いたいことがあんならそん時に言えよ
口に出し辛いならハンマー振り回してもいい
だから、頼むから今日みたいに何も言わず出て行くな
心配するじゃねえか''
「ごめん。」
あーあ。
毎回毎回、あたしの決意はこの男にいとも簡単に打ち砕かれてしまう。
だから望んでしまう。求めてしまう。
「僚」
「香」
「・・・じゃあ、言わせてもらわね」
「あん?」
「あんたさ、いい加減飲み歩くの控えてくれる?今月は光熱費もかさんでるし、食費は相変わらずだし、なのに働かないし、やり繰りするこっちの身にもなってよ。それと、この前伝言板にあった男の人からの依頼消したでしょ?あたし隠れて見てたのよ!あんな調子で今までも無かったことにしてたんでしょうけど、これからはそんなこと許さないわよ。あと、トイレットペーパー最後まで使ったら新しいのに換えといてよね!!」
「か、かおりしゃん・・・?」
「はあ!すっきりした!!」
「あ、あの?」
「あともうひとつ!!」
「なっなんでしょう!」
「ちゅーして!」
「は、ひ・・・?」
「・・・」
「・・・」
「・・・あ〜もう!な、なんでもないわよ!今のは無しにして!」
どさくさ紛れに言ったらなんとかなるかな、とか少しでも思ったさっきのあたしバカ!
何言ってんのよ〜!!!恥ずかしい!
やだやだやだ、絶対こいつ変な目で見てる、引いた?引いてるわよね
はぁー・・・。
「・・・ホントはもっとちゃんとしたとこでするつもりだったんだけどな」
「へ?」
「お前、ファーストキスの場所に廃ビル選ぶってどうなんだよ」
「え?あの?えっと?」
「お前から言ったんだからな。こればっかりは後から文句言うなよ」
「りょ・・・」
あれから二年が経って
今そこには立派な商業施設が建っている。
できた当初、そんなことを知る由もない美樹さんやかすみちゃん、その他色々な人から今度行こうと誘われたけれど、適当な理由をつけて全部断った。
そんなあたしを見て少々呆れた様子で笑っていた僚に、今度あそこに行くときはあんたに愛想尽かした時ね、と耳元で囁いたらみるみるうちに青くなっちゃって。
きっと、いや絶対に、そんなことはないから大丈夫よ。そんなことあんたが一番知ってるでしょ、僚?
−−−−−−−−
時期的には原作終了から少し経ったあたり?
カオリンのちゃんとしたロストFKは、きっとまともなシチュエーションじゃないんだろうなーと。
ま、それがふたりらしいといえばふたりらしい。
(変な話、某心臓漫画の二人も酔いつぶれた僚に人間違いでブチューされるというシチュだったしね・・・(苦笑))
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